ふはははは! 偽善者と認めたこの俺を論破できるか!?

俺は偽善者なんかじゃない。

本気でこう思っている人は、とても素敵な人だ。

とても素敵であるが、すごく弱い立場になる。

「俺は偽善者じゃない」という主張の論理的弱さ

復興ボランティアとか、ちょっと嘘くさいよね。あれでしょ? ぶっちゃけ、「ボランティア行ってる俺、どう?」みたいな感じでしょ? 言っちゃえば、偽善だよね。


違う。偽善なんかじゃない。

このやりとりは、ライオン側が圧倒的に有利になる。

偽善の定義ふわふわ問題があるからだ。

「偽善者じゃない」と言うとこうなる

偽善の捉え方が人それぞれである以上、偽善を否定しようとするとこうなってしまう。

俺は偽善者なんかじゃない。

それはお前がそう考えているだけだろ?


う・・・、ちくしょう・・・。

ネコが負ける理由

偽善の定義は割とふわっとしている。

「捉え方は人それぞれだよね」ってなる。

「俺は偽善者じゃない」という考えも、「人それぞれだよね」ってなる。

これだけを考えると、定義がふわっとしているところが不幸の根元のように見える。

でも、仮に完璧な定義があったとしても、おそらくネコは窮屈な思いをし続ける。

もし完璧な定義があってもこうなる

完全無欠な偽善の定義を導き、それをもって「俺は偽善者じゃない」と確信を持ったとしても、依然として「偽善でしょ」と疑われる空気は存在し続ける。

実はさ、俺、最近寄付始めてみたんだー。ユニセフとか、調べてみると意外とあいつら、カッコイイんだよ。

へー。そうなんだー。

あ、これは「胡散くせえ」とか「きもっ」って思われてるやつだ・・・。余計なこと言うんじゃなかった。


「偽善でしょ」と本音を口に出してくれるくれる人はごくわずかなのだ。
つまり、「偽善者じゃない」という証明のチャンスすら与えられない。

なんて世の中だ。

「気にしすぎでしょ」と思う人もいるかもしれないが、これは大袈裟な表現じゃないと思う。
自分が政治家を偽善者だと疑うのと同じように、自分の善行が誰かに疑われるということは簡単に想像できてしまう。
人並みに相手の気持ちを考えたら、こう考えてしまうのは自然だ。

人を変えるのは無理だし、やってはいけない

偽善を疑われることの問題は、簡単に言うと、「窮屈な思いをする」というものだ。

これを解決するアプローチは2通りあると思う。

解決アプローチ1. 「偽善でしょ」と誰も思わないようにする。

誰も「偽善でしょ」と疑わなくなったら、窮屈な思いをすることはなくなる。たぶん。

でも、これはできないし、やってはいけないと思う。

できない。
ここまで浸透した「偽善でしょ」と反射的に疑う思考パターンを変えることは、ものすごく難しい。
電車で席を譲るのを見て誰一人「うわ、いい人ぶりやがって」と思わない状況を作るのは、たぶん無理だ。現実的じゃない。

やってはいけない。
「偽善でしょ」と疑うのを禁止する、みたいなことはやってはいけない。
いいことをするのが自由であるのと同じくらい、何かを疑うこともきっと自由だからだ。

それに、誰も偽善を疑わなくなったら、別の問題が起こる。
いいことをしようとして不本意に偽善を疑われる人だけじゃなくて、悪いことをしようとして当然の結果として偽善を疑われる人もいる。
そういう人は、疑われるべきだ。放っておいたら、一部の人だけが異常に有利な社会になったりする。
(もうなってるけど)
そんな社会はあんまりクールじゃない。

解決アプローチ2. 「偽善でしょ」と思われても平気な人になる。

こっちは現実的にできるし、誰にも害がない。たぶん。

どうやってやるのか。

偽善者です宣言

偽善を悪いものだと思って、否定するから苦しくなってしまう。

偽善を肯定的に捉える。

悪そうなことを肯定的に捉えた人の例

漫画「デスノート」で、こんな話があった。

開き直る人1
開き直る人1
開き直る人2
開き直る人2
開き直る人3
開き直る人3

開き直ることで、驚くほど堂々とすることに成功している。

このデスノートの人は、自分の正義を振りかざして悪人を殺していたこともあって、最終的に殺されてしまうが、殺されるリスクについては安心して良い。

「偽善でしょ」という空気に悩んでいる人がやりたいのは、寄付とかボランティアとか社会貢献性のある活動。「寄付するやつ殺す」みたいなやつはあんまりいないだろう。

大したリスクもなく、窮屈さから解放される。
ローリスクハイリターン。

シミュレーションしてみた

あれでしょ。震災ボランティアとか、「俺、どう?」的な感じでしょ?


そうだ。僕は偽善者だ。

(・・・なんだと!?)


ならばどうする。ここで殺すか?

・・・はい?


もはや偽善は正義。世界の人間の希望。

(こいつ、やべえ・・・)

やりすぎるとまずいが、偽善者宣言すること自体は上手く機能しそうだ。

さらにこれだと、無言で疑われても平気な状態になる。
「偽善でしょ?」と疑われても、その通りだし否定する気もないから、「そうだよ」となるだけだ。

強い。

ただの開き直りではない

これは、ただめちゃくちゃなことを言って開き直っているだけではない。

偽善のすすめ」という本によると、哲学とかの先人たちが偽善についてはけっこう研究してくれていて、研究者の多くは偽善肯定派であるらしい。

少し長いが、中野好夫という評論家の主張に関する部分を引用する。

中野は、人間は完璧な存在にはなれないといいます。人間は救いがたいほど醜くて弱くてずるくてスケベである。もちろん自分もそうなのだ。その欠点を完璧に克服することは不可能だ。でもだからといって、それをありのままに見せることが誠実だとは思わない。欠点を克服したいと願い、克服しているかのように装うのが偽善であり、そうあるべきだと。

なるほど。人間の弱さを否定するから無茶な話になっていたようだ。

人間は弱いけど、弱いなりに少しはマシな生き方をしようという前向きな姿勢が、偽善にはある。

私も、弱く、欲深い人間だ。
それができるかは分からないけど、女の子にはモテたいし、おっぱいをもみたい。
さらに言えば、ヤリたい。セクシーナースお姉さんと、ヤッてみたい。
確かにこれは本音だ。

でも同時に、少しはマシな生き方をしようと思う自分もいる。
それができるかは分からないけど、安全な水を飲めない子どもは救いたいし、汚染されていく環境を守りたい。
さらに言えば、社会を良くしたい。みんなが奪い合いをして疲弊していくこの社会を、少しは良くしてみたい。
これもまた、本音である。

だいたいこんな話をすると、「気持ち悪い」とか「いや、無理だよ」とか「中途半端ならやらない方がマシ」みたいな雰囲気になる。
たまに、口に出して言われる。

それでも、本音なのだから、仕方あるまい。

例えそれが偽善であっても、中途半端に見えたとしても、今よりマシに生きていこうとする姿勢は、尊いものだと私は思う。

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