偽善の定義ふわふわ問題と、ふわふわすると困るポイント

自分自身を偽善者だと思っている人はどれくらいいるのだろう。

アンケートをとってみた。

こんなことが言えそうな結果になった。(ちょっと母数少ないけど)

  • 偽善者だと思う人、思わない人は、半々くらい。
  • 「どちらかと言えば」という曖昧な答えよりも、はっきりとイエス or ノーで回答する人の方が多いっぽい。

アンケートをとっておいて何だが、今回はアンケート内容ではなく、その前提について考えてみたい。

定義ふわふわアンケート

このアンケートで「偽善者」という言葉を使っているが、たぶん回答者の「偽善者」の定義は人それぞれだと思う。

それでもアンケートに回答した以上、みんな何かしらの基準を持って「自分は偽善者だろうか」という問いに答えている。

私たちは皆、偽善という概念を知っているし、たまに言葉にして使うこともある。

人前で募金するのって偽善だよね。売名じゃん。


いや、偽善じゃない。そうやってやり方にこだわって募金しないでいるのは、自己満足だろう? それこそ偽善だ。


(犬とゴリラの画像は、犬猿の仲を表現しています。分かりやすいですね! 猿じゃなくてゴリラなのは、いい画像が見つからなかったからです。正直で素晴らしいですね!)

このように、何をもって偽善者と呼ぶかは人それぞれである。

だから、偽善の議論をする時は、定義ふわふわ問題が付いて回る。

偽善の定義ふわふわポイント

前回記事でも書いた通り、偽善の定義を参照しても、ある行動が偽善かどうかを判断することは難しい。(以下、Wiki の引用)

偽善(ぎぜん)とは、善良であると偽ることをいう。また、これを行う者は偽善者とよばれる。外面的には善い行為に見えても、それが本心や良心からではなく、虚栄心や利己心などから行われる事を指している。

この定義に従っても「これは偽善か」という問いの答えが分かれるのは、こんな定義ふわふわポイントがあるからではないか。

1. 虚栄心や利己心の捉え方が、人によって違う。

人それぞれ

前述の「募金を人前でする」という行為に対し、「いい人だと思われたいからでしょ。利己的だ」と言う人もいれば、「人目を気にして募金をしない方が、むしろ利己的だ」と言う人もいる。
どっちの主張も一理ある感じがする。

ただ、「虚栄心とか何だろうか」とか言い出すのは避けたい。これを繰り返しすぎるとそのうち、「心って何なんですかね」みたいな話になりそうだ。
すると、哲学の袋小路のような場所に迷い込んで、「偽善でしょ」という空気の窮屈さをなくすという直近の目標から遠ざかりそうな気がする。

2. ある人間の行動の動機が100%純粋であることは、たぶんない。

純粋じゃない

震災復興のチャリティライブを行うミュージシャンは、当然、「きっと復興のために力になりたい」という美しい動機を持っているはずだ。(というか、持っていてほしい)

でも、彼らはきっと「このチャリティー活動によって、自分のイメージが良くなる」という副次的効果は理解しているだろうし、それがチャリティライブを行う動機やモチベーションに全く関わりがないかと聞かれたら、完全に否定することはできないのではないだろうか。

根拠があるわけじゃないけど、人間はそんな純度100%愛の権化みたいな存在にはなれないと思う。

だからと言って、こいつは「俺は30%くらい偽善者だ」みたいな度合い付きの答えだと、次の問題が付きまとったままになりそうだ。「俺は偽善者じゃない」と確信を持ったり、逆に「俺は偽善者だ」と開き直ったりするのが重要そうである。

定義がふわふわすると困るポイント

定義がふわふわして、「これは偽善か」という問いに答えられないと、何が困るのか。

A. 自分自身に対する疑惑が生じ、「誰かの役に立った」という実感や、善行の勢いを鈍らせる。

純粋な思いを持って震災復興ボランティアに参加した学生が、帰りのバスでこんなことを思う。

俺は、偽善者なんじゃないか。


考えは止まらなくなる。

もちろん、「復興のために何かしたい」という気持ちは嘘じゃない。でも、明日からはまた元通りの生活に戻るし、正直、定期的にボランティアに参加しようとも思ってない。

俺は、「実際に現場に行ってきました」という事実を作りたかっただけなのかもしれない。「口では何か言うけど何も行動しないお前らと、俺は違うんだ」って言える根拠が欲しかっただけなのかもしれない。


こんなことを考えると、「誰かの役に立った」ということによる充実感は弱くなってしまうし、次にボランティア活動をしようとした時に、心にどこか引っかかりを感じてしまう。

B. 「偽善でしょ」と思われても完全に否定しきれず、自分自身の中途半端感に苦しむ。

復興ボランティアから帰った学生は、大学の友人と飲んでいる時に、言われる。

復興ボランティアとか、ちょっと嘘くさいよね。あれでしょ? ぶっちゃけ、「ボランティア行ってる俺、どう?」みたいな感じでしょ?


あはは。バレた? そうなんだよね。行ったらモテるかなって思ってさ。

(ライオンと猫の画像は、同じグループに属する仲間であることを表現しています。分かりやすいですね)

なんて、笑いながら適当に流してみるけど、内面ではまあまあ苦しんでいたりする。

あいつの言う通りかもな。実際、完全に否定しようとしたら、嘘になっちゃうし。こんな中途半端な気持ちで行っても失礼だし、こういう偽善みたいなこと、やめた方がいいのかな・・・。


定義はふわっとしても、誰も困らなければ大丈夫

「自分は偽善者なんかじゃない」と完全に言い切ることができないために、悩みが付いて回る。
自分自身を疑って、己の中途半端感に苦しむ。

 

でも、定義はふわっとしても、誰も困らなければ良いと思う。

震災復興ボランティアに行くという行為を、誰かは偽善と呼ぶし、他の誰かは偽善じゃないと言う。
それでも、別に誰も困らない。

そういう状況にできないか。

 

次はそういう話を考えてみたい。

参考書籍

偽善のすすめ(「人前で募金する」の例を参照)

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